日替わりで咲く夏のバラ  義父の戦争体験記その11、12


義母が亡くなって、3年目のお盆が来ました

一昨年は初盆と一周忌、昨年は三回忌と

なにかと忙しかったのですが、

今年はお盆参りがあるだけ、

行灯を灯して、お迎えのしたくを整えました

明日はお墓参り、

s-140813IMG_0531.jpg  

義母とは、新婚の1年間だけ同居しました

結構干渉されて、辛い時もあったけど、

主人の転勤で、その後は長くひとり暮らし

再び、地元に帰った時には病院に入院されていて

88歳の長寿を全うされました


今日咲いたバラ

今日は朝の涼しいうちに、庭のお手入れ

伸びきった芝生を刈って、

無駄とわかっていても、芝の中に生えたカタバミを

毟って、バラの花がらを取って、選定も少し

この暑さで、水不足なのか、全然新芽がでない

元気のないバラが幾つか・・・、

あわてて水をあげたけど、回復してくれるかしら

早く涼しくなって欲しいな 

日替わりで咲く今日のバラです
 

s-140813羽衣IMG_0511

羽衣 

久しぶりに咲いてくれた羽衣

 s-140813ローズポンパドールIMG_0506

ローズポンパドール

虫食いがたくさん、当分殺虫剤の消毒してない

s-140813レディ・エマ・ハミルトンIMG_0519 

レディ・エマ・ハミルトン

s-140813ビアンビニュIMG_0513 

ビアンビニュ

s-140813キャスリン・モーレIMG_0504 

キャスリン・モーレ

s-140813ウイリアムシェークスピア2000IMG_0520 

ウイリアムシェークスピア2000

今日のニャンコ

実家のチビちゃん、4、5日帰ってこなくて

心配してたら、げっそり痩せて帰ってきて

なんだか元気もなくて

母がすぐに病院に連れてったら

貧血のようで、即入院となりました

退院して2日目のチビちゃんです

s-140813DSC07295.jpg 

チーちゃん(左)、寂しかたからかしら

すっかり、チビちゃん(右)に甘えてます

s-140813DSC07288.jpg 

最初の頃は嫌がっていたチビちゃんも

今は仲良しねー

s-140813DSC07282.jpg 

(チビ) 我慢してるニャー

(チー) ニャにか言った

s-140813DSC07297.jpg 

いつまでも寄り添うニャンズでした





 義父の戦争体験記

「北鮮哀歌」 第11、12章は  続きを読むで 

見てくださいね



いつも見てくださってありがとうございます

ランキングに参加しています

下の 妖精さん を ポチっと押してね。

にほんブログ村 花ブログ バラ園芸へ 
宜しかったらこちらの方も
    
  
第十一章. 南鮮の空気

我々の一行が開城の町に入ると間も無く米軍の歩哨に逢った。初めて見たアメリカ兵、ソ連兵に比べて服装の立派なのにびっくりした。顔もアメリカ兵の方が上品で柔和に見えた。彼は私達を待たせていたが、やがてジープに乗ってアメリカ兵と通訳が来て色々尋ねた。そして私達を開城驛の待合室に入れた。私達は今晩此処で夜を開かす事になったのである。汽車は明朝四時に京城行がある相である。午後十一時頃京城を出た汽車が入って来た。此の汽車が明日京城に行くのである。それで私達の一行は米軍に交渉して列車に乗って休ませて貰う事になった。

翌朝、列車が発車する頃になって、開城の保安隊員が来て私達に「全部降りろ」と云い出した。仕方がないので私達は不承不承下車した。するとすぐ朝鮮人が代って乗車し出した。此の時の事情は良くは解らないが、結局朝鮮人が沢山居るのに、私達日本人が汽車の中に休んで、然かも一番先に出発するのが、驛の前の広場で夜を明かして待っていた朝鮮人達の反感を買ったらしい。それで保安隊の指示に依って、我々は降ろされたのである。敗戦国民として仕方がなかった。我々は又驛の前に出て待って居た。此処には我々の一行の外に沢山の日本人が脱出して来ていた。私達が休んで居る間に、保安隊や米軍から道路や驛の待合室、線路の掃除等、色々使われた。此処で前に新幕署の警務主任であった宮原警部に逢った。宮原氏の語られる所に依ると、ソ連兵に捕らえられ平壌に連行せられ、ソ連軍の雑役をさせられていたが、隙を見て仲間の者と逃走した相である。そうしたら間もなくトラックに乗って探しに来て、後ろから銃で何十発と発砲した相であるが、夜であったから幸い弾はあたらず山の中に逃げられたらしい。それから十数日飲まず食わずで、山道ばかり通って命からがら此処迄漸く辿り着いたと云う事であった。

顔は真黒く日に焼け、足は腫れ上がっていて昔の面影はどこにも見られなかった。尚此の外にも同胞の哀れな最后や惨めな話、苦労した話等色々耳にした。

其の日はとうとう汽車に乗れず廣場で夜を明かした。翌日もあとからあとからと朝鮮人が集まって来るので中々私達の乗る番は廻って来なかった。其の日の夕方やっと我々の乗る番が廻って来た。それも婦人子供病人等が貨車の中で普通の男は全部屋根の上に乗せられた。最初は気持ちが良い位であったが、暗くなってからはさすがに嫌になった。特にトンネルを通る時は機関車の煙の為に相当苦しかった。こうして京城に着いたのが夜半であった。驛に降りて見るとさすが朝鮮の都だけあって夜半でも人で一杯である。待合室や通路には英語の標識や宣傳文が貼られてあった。驛前で京城の日本人会の指示を受け、其の晩は驛から二粁ばかり離れた櫻井小学校に宿泊した。然し此処も其の晩限りで米軍から接収されると云うので一晩泊まって翌日は、今度は一里位離れた龍山の女学校に向かって出発した。

龍山に行く途中朝鮮神宮に参拝した。思い出せば五年前、結婚して新幕に来る途中、京城で下車し新婚の二人が将来の幸福を祈って参拝したのであったが・・・・・。あれから僅かに五年、こんな事態になろうとは・・・・・・。私は新幕に残っている妻子の無事歸國を祈った。やがて女学校について、此処で引揚列車に乗れる迄待つ事になった。

翌日、私は岩井部長と二人で京城の町に出かけた。本町通りや驛の前付近は人の波でごった返すさわぎであった。露店商人がどこからこんなに物資を出したかと思われる程、沢山品物を並べていた。町は、ソ連占領地に比べるとどことなくのんびりで落ちつきが感じられた。警察官も米軍の命令で平常通り制服で勤務していた。その位であるから、他の官庁や会社も日本人商店も、戦前と変わりなく営業を続けていた。従って、京城に居る日本人は、特別の事情のあるものを除いては、まだ引揚のことなど考えても居なかったらしい。

ソ連と米国。三十八度を境にして之だけの相違があったのである。最も判り易く云えば、ソ連領と米領では、地獄と極楽の違いがあったと云っても過言ではないと思われた。

京城の町で蓧原と云う新幕で商売をしている人の弟さんに逢った。其処で、蓧原氏の店員である鮮人が新幕に歸ると云う事を聞いたので私と岩井さんの二人は、新幕に歸って機会があったら私達が無事京城に出たと云う事を、新幕に残っている家族に伝えて貰う様に依頼した。(此の伝言は直接妻は聞いたかどうかは解らないが、後から野田さんの話に依ると、私達が無事に京城に出た事はうすうす知っているらしかった)

第十二章. 涙で渡る玄海難

京城で3日くらい過ごした頃、愈々二十五日から引揚列車が出る事になって私達の組は名簿を早く出していた為に、二十五日の列車に乗れると云う話であった。私と岩井部長は此処で皆と一緒に内地に歸ったものか或いは此処に留まって妻子の脱出を待っているべきかについて協議した。妻子を残して歸れば内地の家族が何と思うであろうか。特に妻の実家に対し申し訳がない。男一人がおめおめ歸ったものではないと云う気がしたが、然し京城に留まっても金は無し職は無し、生活が出来ないのだ。京城に留まった処が救出の方法はなく、唯北鮮から脱出して来た人に状況を聞くだけの事ではないか。私達が此処に待っていても又歸って待ってもいずれ時日が経てば歸るに違いないから一応歸ろうと云う事になった。

歸ってから事情を話せば解って貰えると思った。それにしても何となく淋しい気がしてならなかった。九月二十五日の夜明けに龍山を発って京城驛に向かった。こうして私達は午前七時頃列車に乗って京城を発った。汽車の中から窓外を見ても、ソ連占領地の様に旗なども全然見られなかった。唯大きな建物や驛等にアメリカの旗が立ててある丈であった。汽車が大田辺りを通過する頃であったか、朝鮮の禿げた山々が夕日に照らされている姿が、見た事も無いヨーロッパ辺りの外国を旅行している様な気がしてならなかった。汽車の窓から眺めた其の景色が何故か強く印象に残っている。

其の日の夜中に列車は釜山に着いた。此処で不計にも元新幕署に居られた小林警部補に逢った。小林氏は慶南の道庁に勤務して我々引揚者の世話をして居られたのであった。此処で私達は小林氏と一緒に事務所に行って水を貰ったりして色々お世話になった。

尚此処で総督府警務局の人から私達警察官に百円ずつ戴いた。夜の明ける迄列車の中で過ごして明るくなってから皆と一緒に引揚者の収容所である第七國民学校に行った。此処で私達は四日間位滞在した。尚此処でも小林氏に依頼して引揚者の世話をさせて貰いながら家族を待って居ようかとも話し合ったが、結局金も無く此の先どんな状態になるか見通しがつかないので歸る事にした。私は又此の頃から疲労と衰弱とでマラリヤが出た。

九月三十日の夜明けに収容所を出て米軍の身体検査を受け連絡船興安丸に乗船した。さらば朝鮮よ・・・・・・・。私としては家族を新幕に残している丈に後ろ髪を引かれる想いであった。連絡船の中でも家族連れの引揚者や玲子位の女の子を見る度に、あゝ、之が家族全部で歸るのだったらどんなに嬉しいであろうか・・・・・。色々考えているといつの間にか涙が出た。青い玄界灘は鏡の如く静かであった。愈々朝鮮の山が見えなくなる頃、私はいつ迄もいつ迄もじっと眺め乍ら妻子の無事歸国を祈っていた。

夕方船は懐かしの故郷仙崎港に入った。皆は内地の姿を見て感極まって泣く者も居た。然し私は淋しいだけであまり嬉しくなかった。間もなく傳馬船で港に上がり、そこからトラックに乗って正明市迄来た。此処でむすびを二個ずつ貰い民家に泊まらせて戴いた。私は船が港に入った頃から急に寒気がして来て困った。正明市の民家に泊めて貰う頃は、熱の為に一歩も歩けない位苦しかった。此処で岩井部長は「其の晩の汽車で発つ」と云って私と別れた。新幕の留置場以来生死を共にして来た丈あって、さすがに別れは淋しかった。お互いに今度連絡する事を約束して、私は岩井部長を見送った。

私は熱の為に今晩泊まって翌日ゆっくり歸るつもりで居たが、同行の岡村さん達が二時の汽車で発つと云われるので、私も出来れば一緒に歸りたかった。

十時ごろ横になってぐっすり一眠りしたら、もう岡村さん達は出発の準備をされていた。私は一眠りしたお蔭か幾分気分が良くなったので、一緒に歸る事にした。尚、此処で南川以来お世話になった日本人会長の冨金原氏一家と別れた。

列車は満員であった。私達は立った儘、下関迄身動き一つ出来なかった。夜明けの六時頃、漸く列車は下関に到着した。此処でも時間の余裕はなかった。東京行きの上り列車がホームに待って居た。私達は先を争って車内に入って行った。今度は幸い腰がかけられた。やがて列車は思い出の山陽線を東に向かって進行を始めた。窓外に展開して行く内地の山や家。「国敗れ、山河あり」昔の名句を身を持って体験した。午前九時頃、列車は懐かしの故郷、三田尻驛に到着した。驛前で八王子町に歸られる岡村さんと別れた。私は堀口通りの親戚に身を寄せられる竹田さん一家と町を歩いた。

こうして私は何一つ荷物を持たず、着のみ着の儘幾年ぶりかで懐かしい我が家に歸って来たのである。

 

 

スポンサーサイト
コメントの投稿

 管理者にだけ表示を許可する
 

こんなに暑くても、バラ咲くのですね。いいなあ。
バラはむずかしくて、あきらめてしまいました。
きれいなロマッチックなばら、たくさん見せてください。
楽しみにしています。
猫ちゃんもかわいい。
ふみ乃 | URL | 2014/08/14/Thu 15:34 [編集]
たくさんのバラが咲いていますね♪
今年は初めて摘蕾しています。
猫ちゃん、元気になって良かったです!
にゃんまま | URL | 2014/08/14/Thu 21:35 [編集]
麻呂です♪
チビちゃん心配ですね~!!
でも、無事退院できてもう大丈夫かな???
甘えん坊なチーちゃん可愛い~!!
大きくなりましたね。
お色が素敵です。

薔薇ちゃまも綺麗♪ (ノ≧∀≦)ノ
maro | URL | 2014/08/14/Thu 22:10 [編集]
トラックバック
トラックバック URL

プロフィール
フリーエリア
最新記事
最新コメント
カレンダー
プルダウン 降順 昇順 年別

07月 | 2017年08月 | 09月
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -


最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
訪問
閲覧
カテゴリ
カテゴリ
最新記事
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
ご意見・ご感想はこちらから

名前:
メール:
件名:
本文:

バラ一覧
ブロとも一覧

アロマサロン HEARTY ブログ

bibimama 夢の家ブログ ( *´艸`)

アンティーク調ジュエリー工房のMICHELLE  ミシェル

猫の来る庭 O's Garden