夏のキャラメルアンティークが綺麗 閉所恐怖症のルナちゃんが箱に・・・ 義父の戦争体験記その9、10


今日はテレビで、

日航機墜落事故30回目の夏という番組が

放送されましたね、ついつい引き込まれるように見てしまい

目頭が熱くなりましたました

あの事故からもう29年もたったのですね

29年前のあの日はたしかNHKで「マリコ」という

日米開戦前夜のドラマの再放送を見ていたら、

突然画面が切り替わって

 日航機墜落のニュースになったのを

覚えています

今年は旅客機の狙撃・墜落事故もあって、

そして戦争も未だに止むことはなくて・・・

安全で平和な世の中が来ることを望みます

今日咲いたバラ

もうじきお盆、仏様に飾るお花を買いに行ったら

一束450円位、二束買うと900円高いわね

バラを仏壇に飾っていいものなら、

たくさんあるんだけど、トゲのある花は

タブーのようで・・・

s-140812キャラメルアンティークIMG_0486 

キャラメルアンティーク

花付きが良くて、しかも大輪

切り花品種が元なので、凛と上を向いて

咲いてくれます

s-140812ルージュ・ピエールドゥロンサールIMG_0484

ルージュ・ピエールドゥロンサール

いつも少しだけ開いて、終わってしまうか

蕾のままでボーリングになってしまう

ルージュピエールですが、

今日は綺麗に開いて咲いてくれました

なかなか綺麗に開かないので、いっそ切ってしまおうと

思ったりもしたのですが、こんなに咲いてくれると

切れませんね

 s-140812ピエールドゥロンサールIMG_0499

ピエールドゥロンサール

こちら、名前は同じでもルージュピエールとは

全く血縁関係がないんですよ

一季咲きとも紹介されていますが、時々返り咲いてくれます

s-140812つるうららDSC07229 

つるうらら

春はとっても花持ちが良かったつるうらら

夏はどうでしょうか

秋も楽しみだわ

s-140812しずくIMG_0493 

しずく

昨年あおいを頂いてからF&Dローズのとりこになりました

透き通る様な、しずくの花びらが素敵ですね



今日のニャンコ

モコちゃんいつものように箱に入って

s-140812DSC07255.jpg

遊んでって催促ですよ

s-140812DSC07257.jpg 

ねずみのおもちゃで遊んであげると

必死にねずみを目で追います

s-140812DSC07247.jpg

それを見ていたルナちゃん、箱は大嫌いなのに、

何故だかモコちゃんと入れ替わって

ルナちゃんも遊びたいのかしら ・・・

s-140812DSC07252.jpg 

ねずみのおもちゃに興味津々

うわーヒゲも前に出てるわ

s-140812DSC07251.jpg 

精悍な目つきは、まるで豹のよう

モコちゃんと全然違いますね




 義父の戦争体験記

「北鮮哀歌」 第9、10章は  続きを読むで 

見てくださいね



いつも見てくださってありがとうございます

ランキングに参加しています

下の 妖精さん を ポチっと押してね。

にほんブログ村 花ブログ バラ園芸へ 
宜しかったらこちらの方も
    
  







第九章. 虎口を逃れ沙里院に

 翌日も朝から二・三人連れのソ連兵が来ては金や物を取って行った。午後四時頃であったか、二人の将校らしき者が四・五名のソ連兵を連れて入って来た。彼等はリンゴ園の周囲を迫って見たり、家の中を見たりしていたがしばらくして、日本人会長や幹部の者を集め片言の日本語で「ケイジョウ、トウキョウ」と云い乍ら手真似で南の方を指した相である。それで之は内地に歸してやると云う 事だろうと解して皆に歸る準備をする様に通知させた。皆は愈々内地に歸れるのだと聞いて歓喜の色を現わし、今迄の苦労も忘れて出発の準備にかかった。荷物と云ってももう此処に来る迄に殆ど掠奪されていたので当座の食糧と衣類、毛布等をトランクやリュックサックにつめ込む位であった。私と岩井部長は何も無いので他の人の手傳をした。此処で南川の保安隊やソ連兵が私達五名の事を記憶して居なければ其の儘一緒に歸れると思うと急に嬉しくなって、助かるかも知れないと云う気がして来た。皆の者が出発の準備に夢中になっていたら、もう多くのソ連兵が入って来て銃をつきつけ乍ら早く出て行けと合図をした。皆は内地に歸れる嬉びとソ連兵の銃が恐いのとで、碌々ろくろく荷物をとりまとめる間も無く門のところに集まった。丁度其の時は食事前であったので、飯を焚いている者や食べようとしていた最中であったが、折角のご飯もお菜も其の儘にしたのであった。

 保安隊やソ連兵が集まって来て居たが、別に私達五人を探す様子も見えないので私達は皆と一緒に行動を共にした。各班毎に整列して門を出た。南川驛に行く途中から鮮人達が物珍し気に我々の一行を見物したり尾いて来たりなどした。やがて驛の廣場に来た。此処で大分待たされた。私達は身分が身分だけに早く汽車に乗せれば良いがと、そればかり念じていた。然し此処まで着たら大体助かるものと思われた。捕われの身から思いがけなく、急に一般日本人と一緒に歸ることが出来ると思うと心の底から喜びが沸き上がった。然し私達が廣場で待たされて居る間に朝鮮人達が大勢集まって見物していたが、此等の中には「お前達は内地に歸るものと思うと当てが違うぞ、此れからお前達はシベリヤか満州に連れて行かれて、ソ連から一生使われるのだ」と云って威嚇する者も居た。私達はまさかそんなことはあるまいと思って居た。やがて貨物列車に乗せられた。機関車が北の方に付いているので一抹の不安はあったが、そのうちに取り換えるものと思っていたら、間も無く列車は動き出した。京城の方に行くものと思っていた列車は、我々の予想を全く裏切って北に向かって進行し出したのである。列車が北進し出してから皆は不安になっていた。驛で朝鮮人の云った事など思いだされ、何処に連れて行かれるのであろうか、此の先どうなるのであろうかと各自不安な顔をして、思い思いの事を話し合った。やがて日本人会長や幹部の人達から、もうこうなったら我々三百数十名の同胞はお互い運命を共にし、行く処迄、飽迄一緒に行こうと云う様な申し合わせがあった。(その時は何の為に我々を汽車に乗せたのか考える暇もなかったが、後になって考えて見ると、ソ連軍の移動部隊が我々の居たリンゴ園を自分達の宿舎にする為に、我々を追拂おっぱらったものとしか考えられぬ)

 私達はそのお陰で警察官としての身分は判らずに、最后まで南川の日本人と行動を共にする事が出来た。思えばソ連の移動部隊が私達五人を助けたとも云われる。やがて列車は新幕に着いた。此処で十分位止まっていたが、暗かったお陰で保安隊にも見つけられず、其の儘通過した。欲を云えば私達は此処で下車して懐かしい妻子に逢いたいのだがそんな事をすれば忽たちまち保安隊に捕まってどんな事になるか解らない。いとしの妻子よ、一日も早く歸って呉れと祈りながら通過した。

 夜半に列車はどこかに停まって動かなくなった。私達はどこであるか確かめる勇気も無く連日の疲れでうとうとしていた。薄明るくなって見れば三百米位北に沙里院の驛があった。明るくなってから我々の乗っている列車を引込線に入れて機関車を外した。其処で我々は列車から降りて飯を炊いたり便所に行ったりした。やがてどこからともなく朝鮮人婦人達が頭にリンゴや餅等を乗せて売りに来た。彼女達は驛員から追拂われるとどこかへ姿を隠し、しばらくするともう列車に近づいてきて商売を初めていた。私は空腹で仕方がなかった。昨日の晝食以来何も食べてはいないのだ。餅やリンゴを買いたいにもお金は一銭も持っていないのだ。どこかに金でも入れてなかったかと思って洋服のポケットを探していると、胸のポケットに紙の様なものが入っているので何気なく出して見てびっくりした。そこには思いがけなくも百円札が二枚紙に包んで入れてあったのである。私は思わず有難いと叫んだ。之は天の助け船だと思っておし戴いた。それで早速リンゴと餅を買って岩井部長と二人で食べた。ああ其の時のおいしかった事。此処で我々は三日間過ごした。その間驛の方からもソ連軍も保安隊も何とも云ってこなかった。最も保安隊の方からは時々見廻りが来ていたが、余りやかましい事も云わなかった。皆は持って出たお米で飯を焚いたり沙里院の町に出てお菜を買って来たりして夜は貨車の中に寝た。

 私も岩井さんと一度、人目につかぬ様にして市場に出て見た事があるが、物資の豊富なのにびっくりさせられた。食糧を初め衣類、石鹸、地下足袋、マッチ、砂糖、菓子、酒、魚、肉等、之だけの物資が今迄何処にあったかと思われる程の物があった。戦争中はどこを探しても見られなかった様な物でも何と数多く並べである事か。彼等は戦時中何処かに隠匿していたに違いない。又値段の高いのにも驚かされた。然し此処では金さえあればどんな贅澤な生活でも出来ると思われた。

 我々が沙里院に送られ無意な生活を送っている間も日本人会長や、幹部の人達は毎日集まっては今後の打開策を練っていた。此の儘此処に居たのでは食糧は無くなり金は減る一方である。長くて十日か二十日の間には殆ど何も無くなるのは目に見えている。それかと云って脱出しようには南川なら兎も角、沙里院迄送られて終しまっては婦女子や老人を連れた大部隊ではどうして歩かれよう。尚其の上に途中保安隊や朝鮮人にどんな目に逢わされるか解らない。何とかして汽車に乗って歸る方法を構じなければならないと真剣になって協議した。又私達五人の者は此処迄来ればもう一般日本人と同じであるが、然しいつ新幕から保安隊が探しに来るか解らぬと思えば、此処で南川の日本人と別れて、私達五人で歩いて脱出しようかとも話し合ったが、折角此処迄一緒に来たのだからもう少し様子を見でからにしようと云う事にした。

 四日目の晝頃幹部の人々から愈々ソ連軍との交渉が成立して今日から五十人ずつ列車に乗って歸るようになったと通知された。皆は歓喜の聲を上げた。幹部の人達の話を聞けば昨日からソ連軍の宿舎をあっちこっち廻り歩いて交渉したが、さっぱり要領を得ず最后に、驛に居たソ連の軍曹に交渉してやっとパスポートが貰えた相である。日本式に考えて上の方ばかり廻ったのが返って無駄であったのである。

 五十人ずつの班に別れ抽選に依って乗車の日取りを決めた。その日の午後五時頃第一組は乗車して出発した。私と岩井部長は第二日目に乗る事が出来た。二日目の夕方沙里院驛のプラットホーム出た。私達は人目につかない様に、私は岡村さんの長男浩チャンを背中に負って待っていた。沙里院は乗降客が多いのでいつ新幕の人に見つかるか解らないので・・・・・。折角此処迄来て見つかってはと思って用心の上にも用心をした。

 汽車は予定より遅れて到着した。見れば朝鮮人で満員であった。私達日本人は驛員からの指令で二両にしか乗れなかった。私達五十人は朝鮮人で一杯になっている中に割り込むのである。並大抵の苦労ではなかった。それでもどうやら全部乗車した様であった。私と岩井部長は人に顔を見られたくないので真中の方に割り込んで浩チャンを抱いてしゃがんでいた。やがて列車は進行し初めた。

第十章. 國境(三十八度線)突破

 沙里院を発って一時間位は途中の各驛とも何事のなく通過した。此の調子ではうまく金郊迄行けると思われたが、薄暗くなった頃列車は新幕より二つ北の文武里驛に着いた。するとプラットホームに出ていた銃を持った五・六人の保安隊員が「日本人は皆降りろ。此の汽車は日本人の乗る汽車ではない。降りなかったら銃殺するぞ」と云い乍ら乗降口付近に居た日本人を片っ端から引きずり降した。私は中央部にしゃがんで居たので詳しい事は知らないが、此の時岡村氏は保安隊員に説明しようとしたら、生意気な事は言うなと言って四・五名の保安隊員から、殴られるやら蹴られるやら酷い目に逢ったらしい。それでも停車時間が短かったので列車が動き出してから皆飛び乗った相である。私は此の調子では此の次の瑞興・新幕でこんな事にならまければよいがと心配した。もし新幕でどうしても日本人が降ろされる様な事になれば、降りる様な風をして反対側から降りて一生懸命逃げようと岩井部長と話し合った。

やがて端興驛についた。然し此処では保安隊員は出て居らず何事もなく通過した。次は愈々新幕である此処さえ無事通過すればもう助かるのだと思うと、どうか無事通過出来ます様にと心の中で神に祈った。間もなく列車は新幕驛に到着した。此処では降りる者が大部あった。五分間位は何事もなかった。此の調子では無事通過出来るかと思っていると、どかどかと靴の音がして銃を持った保安隊員が十五・六人やって来て「日本人は全部降りろ」と大声で怒鳴った。「お前達は銃殺だ」とか「降りる迄は汽車は動かないぞ」とか散々な嫌がらせを云い乍ら、乗降口の方から一人一人電灯で顔を照し乍ら日本人を降し出した。私はもう駄目だと観念した。幸い車内は電燈がつかず真っ暗であった。私は逃げるつもりで抱いていた浩チャンを岡村さんの奥さんに渡し反対側の方を見た。そこには運悪くソ連兵を満載した貨物列車が停っていた。之では反対側にも出られない。保安隊員は一人一人顔を照らし乍ら段々に私達の居る方に近づいて来る。もう絶体絶命、私は最后の手段として真暗いのを幸いに、朝鮮人に見せかける為鮮語を使い乍ら人を掻分け、保安隊員の居る方から遠ざかって便所に入った。もうプラットホームには半分位降ろされて居るらしかった。便所の中で五分位待った頃であろうか、保安隊員も余りの混雑に諦めたか、列車から降りて行った。そうしてしばらくすると、降りて居た日本人も荷物をほったらかして汽車に乗り出した。やがて汽車は動きだした。

 其の瞬間あゝ、助かったと天にも昇る心持がした。新幕停車時間の長かった事、僅か二十分位であったろうが全く命の縮まる思いであった。列車が進行し出してから今度は急に新幕に居る妻子の事を思いだした。

 此の列車に家族が乗っていたらどんなに嬉しいであろうか、一目でも逢って助かった事を話したい。然し現実はそれ処ではなかった。妻よ、玲子よ、どうか無事で脱出して呉れ。新幕も南川の様に思わず早く歸れる日が来れば良いが・・・・・・・。そうなれば、再び逢うことが出来る。その時はどんなに嬉しかろう。私が無事で先に歸っているのを見たら妻はどんな顔をするであろうか、色々考えると急に未来が明るくなる様な気がして朗らかになった。

 新幕を過ぎてからは各驛とも何事もなかった。こうして夜中に金郊に着いた。此処から南には汽車は行かないのだ。私達は金郊の保安隊とソ連兵に指揮され、驛前の廣場に集まって其処で夜を明かす事になった。此処ではソ連兵や保安隊が我々の為に(むしろ)をかして呉れたりして親切であった。女や子供を真中にして夜の明けるのを待った。其の間にも二・三人ずつソ連兵が来ては身体検査をして色々の物を奪った。夜明け頃から今度は一人一人並ばせて荷物や身体の検査が初まった。然し私達はまだ薄暗かったのを利用して、隙を見て検査が済んだ方に廻ったので検査を受けずに済ました。

すっかり明るくなった頃漸く検査が済んで、ソ連兵が腕を南の方に振り行っても良いと云う事を示した。之で愈々國境を突破出来るのだ。然し汽車は動かず自動車もなし、之から米軍占領地の開城迄約八里の道を歩いて行くのだ。すると何処からか一人の鮮人が来て牛車を雇わないかと云った。皆は相談の上、婦女子や子供も居るし荷物もあるので牛車を雇う事になった。一台五百円である。皆は金を出し合って五台の牛車を雇った。それに荷物や婦女子を乗せ、愈々金郊の町を出発した。私は岡村さんの荷物を持って一緒に歩いた。途中何回も休んだ。三里ばかり行った処でソ連兵に逢った。此処は鶏井と云う処である。ソ連兵に呼び止められたが、大した事も無く通過出来た。それから一里ばかり歩いて黄海道と京幾道の道界迄来た。この辺が三十八度の國境であろう。其処には川があってきれいな水が流れていた。此処で私達一行は食事の為二時間ばかり休憩した。私は此処まで来て無事國境を超えたと思うと本当に助かったと云う気がした。食事を済まし皆は川に入って身体を洗った。澄み切った水で身体を清めた時は何とも云えぬ良い気持ちであった。

此の金郊から開城迄の道中で印象に残っているのは道路の端に鮮人の物売りの多い事である。飯や酒を売る店、果物を売る者、到る所で売っていた。然し彼等は商売もやるが相手が日本人で人数が少ないと見れば忽ち追剥強盗に早変わりするのである。私達の一行は五十人余りの団体であったから幸い開城に着く迄何も被害はなかった。尚此の道路は汽車が通らない関係で我々日本人の外に北鮮・満州から南鮮に歸る朝鮮人、内地・南鮮から北鮮の故郷に歸って行く鮮人や復員した軍人等で人通りの絶え間が無かった。昔の東海道五十三次もこんな状態であったろうかと想像された。ゆっくり休憩した後再び出発した。今までは朝の間であるし、疲れも出ず皆元気が良かったが、だんだん暑くはなるし無事に國境を超えたと云う安心感も手傳ってか、ぼつぼつ遅れる者も出て来て自然速度も鈍った。この辺迄来て急に感づいた事であるが、こちらは何と平和そのものである事か。ソ連占領地域は町とは云わず田舎とは云わず、朝鮮の国旗と赤いソ連の旗が風に(ひらめ)いていた。朝鮮の國旗はそれ程にも何も感じなかったがソ連の赤い旗を見ると何となく物々しい感じがしてならなかった。

それが國境を越え米軍の方に入ると、朝鮮の旗も米國の旗もどこにも見られなかった。昔の儘の平和な姿、何処に戦争があったかと疑われる程ひっそりしていた。此の頃から私は岡村氏と浩チャンを交互に背負って歩いた。暑い盛りを重い浩チャンを背負って歩くのは中々骨が折れた。あゝ、之が玲子チャンだったらどんなに嬉しかろうと心の中で思った。休んでは行き、行っては又休みして其の日の夕方やっと開城に辿り着いた。

 

 


スポンサーサイト
コメントの投稿

 管理者にだけ表示を許可する
 

ウチは仏壇に薔薇をいつも供えてますけど
煩い人は煩く言いますね(^^;
そういう場合は面倒でも棘を取り除くといいみたいですよ(笑)
私の場合は母が薔薇が好きだったので
薔薇を供えますが、
やっぱりお盆とかお彼岸の時はバラは脇役にして
目立たないようにしちゃいますけどね(^^;
(色々言われたら嫌ですもの)

ルナちゃんも箱に目覚めたのかしら?
ルーシェも何故か箱はダメなんです。
病院に行くキャリーを連想するからかしら?
ROUGE | URL | 2014/08/12/Tue 23:48 [編集]
麻呂です♪
ルージュピエールちゃま、うちは大雨でも降らない限り
ボーリングすることもなく綺麗に咲いてくれるんですが・・・
気候や湿度が関係するのかもですね~。
可愛いお花だけに残念ですね~。

ルナモコちゃん、真剣で可愛いですね~。
maro | URL | 2014/08/13/Wed 09:36 [編集]
光陰矢のごとし
こんにちは! Keikoさん

日航機墜落から29年が経ったんですね。
その時アメリカ旅行をしてまして
サンディエゴのホテルの受付の人が
「大変な墜落事故があっと」と教えてくれました。
すぐに新聞を見ると1面に大きく取り上げられ
貪るように読みました。
観光をしながら新聞に目を通す日々でした。
とても強烈な印象で残っています。

お義父さんの手記毎回ハラハラしながらよんでいます。
ソ連兵や朝鮮保安隊からの略奪や虐待を受けながらも
家族のためにも、絶対に生き延びるという覚悟・執念が
伝わってきます。
保安隊による一人一人、顔を照らしながら確認する。
もうすぐ自分の番がくる心臓が高鳴っていたことでしょう。
それを咄嗟の判断でトイレへ それで難を逃れる。
その光景が浮かび胸が締め付けられる思いでした。
花咲かじいさん | URL | 2014/08/13/Wed 13:10 [編集]
トラックバック
トラックバック URL

プロフィール
フリーエリア
最新記事
最新コメント
カレンダー
プルダウン 降順 昇順 年別

07月 | 2017年08月 | 09月
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -


最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
訪問
閲覧
カテゴリ
カテゴリ
最新記事
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
ご意見・ご感想はこちらから

名前:
メール:
件名:
本文:

バラ一覧
ブロとも一覧

アロマサロン HEARTY ブログ

bibimama 夢の家ブログ ( *´艸`)

アンティーク調ジュエリー工房のMICHELLE  ミシェル

猫の来る庭 O's Garden