ビデオは難しいわ・・・(~_~;)  義父の戦争体験記その2


台風11号がだんだん近づいて進路が気になりますね

今回の台風は、何処を通っても、暴風雨圏内からは

免れそうもなくって、明日は台風対策に追われそう

被害が無く、通過してほしいわ




先日、オープンガーデンの時に撮ったビデオ

そういえばまだ見てないねって、言う話になって

3か月ぶりに主人が撮った庭のビデオを

見てみました

今まで撮ったこと忘れてるって呑気でしょ(笑)

でも、結果は期待していたのに、カメラを回すのが早すぎて

とても紹介できる代物ではありませんでした

娘が、ビデオの編集ソフトを使ったら

観れるようになるよっていうので、

只今、主人がビデオ編集の勉強中です

何とか編集出来たら紹介しますね

今日咲いたバラ

台風の前の見納めかも、今日も咲いてくれた

バラを紹介しますね

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エレガントドレス

バラ友さんから頂いた切り花品種のバラ

春よりは秋の方が綺麗に咲くようです


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センティッド・エアー

一番最近お迎えしたバラ

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ワイルドイブ

葉は黒点病が蔓延してるけど、

凛とした花はとっても綺麗 

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ラパリジェンヌ

とっても小っちゃい花が咲きました

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ズウニール・ドゥ・ルイ・アマード

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グラハムトーマス

次から次へと咲くので

ローズヒップがいっぱい付いてます 


今日のニャンコ

娘にビデオの編集を教えてもらっていたら

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ルナちゃんが興味津々、覗きに来ました

 s-140808DSC07176.jpg
 と思ったら、いつの間にかモコちゃんに交代してた

s-140808DSC07169-1.jpg  

モコちゃん、最近ルナちゃんの真似をして、

テーブルの上にあがって寛ぐのを

覚えてしまいました

 

今日はブログはお休みしようと思っていたのだけど、

昨日から載せている 「北鮮哀歌」 まだまだ先が長いので

今日も載せました

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第二章 .朝鮮の動き

営門を出て平壌驛に急ぐ途中我等が中隊長萩原中尉に出会った。非常に温和な思いやりのある中隊長だった。我々は此の中隊長の許に水火も辞せずと誓ったのであるが、もう此の人とも別れなければならない。別れの挨拶も中々口に出なかった。中隊長も同じ気持ちと見えて、やさしい言葉で「元気でやってくれ」と云われただけで後の言葉は出なかった。漸く別れの挨拶を交わし歩きかけては又後を振り返った。中隊長は道端に立った儘で我々を見送っておられた。敬礼して今度はしばらく歩いてもう一度振返って見ると中隊長も歩いて行かれ乍ながら思い出した様に振り返られた。こうして曲がり角迄行って最后にもう一度振り返って思い切って別れた。我等のやさしい中隊長に幸あれと祈り乍ら。

平壌の町も大変な人出である。我々が毛布や食糧等を背負って歩いていると、鮮人の「オモニ」等が集まって来て盛んに米を買って呉れとせがんだ。然し我々はそれどころではなかった。一寸でも早く驛に行って汽車に乗らなければならない。真夏の太陽は容赦も無くカンカンに照りつけ焼けるように暑い。やがて驛の近くになると人で一杯であった。驛前から待合室、プラットホーム迄人の山であった。召集解除になった兵隊、解放された徴用者、刑務所の囚人等、終戦の為に俄にわかに自由になった人ばかりで驛の内外はごった返す騒ぎである。それでも私達は人をかき分ける様にして待合室に入って行った。丁度私が待合室に入った時、思いがけなくも松月駐在所当時の次席松井巡査の細君にばったり出逢った。彼女は私を見ると「アイゴー」と一言云った丈でしばらくは物も云わなかった。朝鮮語でどうしたのか尋ねると主人が行方不明になったのだと話した。彼女の顔は不安と憔悴の念で一杯であった。彼女はこれから郷里へ歸って見るとの事である。ゆっくり慰める言葉も出ず人混みに押され別れた。此の調子では新幕辺りは大部騒いでいるのではないかと想像された。何れにしても一刻も早く歸って見なければならぬ。列車の時間等は全然出て居ない。驛員に尋ねてもいつ汽車が来るか解らないと云う。切符を真面目に買っている者もなかった。我々も待合室に居たのではとても汽車に乗れないと思ったので横に廻って策を越えプラットホームに出た。ホームはホームで足の踏み場もない位人で詰まっていた。徴用歸りか、或いは刑務所の囚人か白の汚れた鮮服を着た一同が玉蜀忝を噛かじり乍ら鮮語で何かぶつぶつつぶやき乍ら待っていた。幾度かホームの人が荷物を持ち乍ら立ち上がった。列車が入って来たと思って乗車の準備をするのであった。私も其の都度遅れまいとして立ち上がらなければならなかった。やがて二時間余りも待ったであろうか。漸く釜山行きの列車が入って来た。見れば機関車も汽車の入口も人で一杯である。之以上は一人も乗れないと云った状態である。それでも列車が徐行し初めると、もう人々は荷物を持ち乍ら列車に殺到した。危険も何もあったものではない。大聲で叱る聲、喚く者、悲鳴を上げる者、列車内もホームも喧々諤々として全く収容のつかない状態である。私も人波に揉まれ乍ら列車に近づいたが乗れるどころの騒ぎではなかった。

之ではとても乗れないと諦めていたら、しばらくして列車を三輌増結するから機関車のほうへ行けと驛員が連呼した。今度は列車に沿ってホームを二〇○米ばかり我勝ちに走った。車輌の増結が済まない既に車内は満員になった。私も此の汽車に乗らなければ今度は又何時乗れるか解らないので、全く夢中であった。それでも人の波に押され乍らやっとの思いで車内に入る事が出来てようやくほっとした。

之で愈々新幕に歸れるのだ。懐かしい妻子に逢えるのだと思うと急に嬉しくなった。驛迄一緒に来た戦友達はどこに行ったのか一人も見当たらない。皆思い思いに行動しなければならなかったので、ホームの混雑で別れたのである。車内も一寸の動きがとれない程の人である。やがて列車は進行を初めた。乗りそこなった数百の人を残して・・・・・・・・。

列車が黄海黄州あたりを走っている頃であろうか、窓際から外を見ると鮮人の各部落の家々に日の丸の旗が立ててあるではないか。私は何の為に国旗を立てて居るのか意味が解らなかったが、後で新幕に歸ってから知ったのであるが、それは日本の国旗を朝鮮の国旗に俄にわか造りしたものであったのである。午後三時頃であったであろうか。列車は漸く懐かしい新幕に停車した。私は急いで列車から降りて驚いた。此処も平壌驛程ではなかったが、待合室から驛前の広場にかけて、真白い鮮服で埋まって居た。私の他にも此処で半島出身の兵隊が大部降りた。私が人を掻分け乍ら待合室を通ると、鮮人達は朝鮮語でどこから歸ったかと一々尋ねた。彼等は自分の夫を息子を或いは兄弟を兵隊に出していたのだろう。心配になって驛まで迎えに来ているのであった。待合室を通り過ぎ広場に出て来ると中央に大きな宣傳塔の様なものが立ててあって、「大韓国獨立萬歳」と書かれてあった。私は驛の直ぐ近くにある和田さんの家を訪ねた。

此処で一寸書き忘れていたが、和田さんの息子正男君は私と一緒に入営したのだ。和田君は幹部候補生になっていた為、私と一緒に歸ることが出来ず残されたのである。それで私が歸る時に両親に元気で居るから安心する様に傳えて呉れと頼まれていたのである。私が和田さんの家に入るとすぐお母さんが出て来られて「まあ、松田さんご苦労様でありました・・・・・。大変な事になりましたね。」と云われ、直ぐ正男君の様子を聞かれた。子を想う親の情け、私は和田君と一緒に歸れなかったのが何だか済まないような気がした。それから和田君の傳言を話し幹部候補生であるから私と一緒には歸れなかったが、何れ近い内に歸られるでしょうと話した。(後に此の和田氏夫婦は一人息子の正男君の姿も見ず新幕で淋しく死なれたのである。又正男君はその後どうなっているか全く消息不明) 私は又私で妻や子の事が心配であるので尋ねると、私の家族は龍坪に居るとの事である。それで龍坪はどうでしょうかと尋ねても一向に連絡が無いから解らないと云われた。私は一刻も早く龍坪に行って見たかったので、お暇いとましようとすると無理に引き止められて、あり合わせですがと云われ食事を出された。思えば私も部隊で朝飯を食べた丈で何も食べられなかった。それで御厚意に甘え御馳走になった。其の間に十五日以来の出来事を色々話された。

終戦が知れるや朝鮮人達は萬歳萬歳と騒いだ相である。それに一部の不遜鮮人が煽動した為、或る所では駐在所が襲撃され、面事務所が焼かれ学校を襲ったりした相である。新幕も相当騒いだらしいが焼打ちや襲撃等は無かったらしい。神社は日本人が集まって協議の結果、その儘にしていたのではどうせ朝鮮人に焼かれると云う事が解ったので日本人で焼いたとの話であった。警察も終戦後三日間と云うものは、全く手の施しようもなく成り行きにまかせていたらしい。特に朝鮮人警察官は大部分行方不明になって終わった相である。

兎に角八月十五日を境にして世の中が逆になったのである。今迄刑務所や留置場に入って居た連中が出て来て指導的立場に立ったのだから凡そどんな事になったかは想像に難くない。食事が済んでも色々と話が続いた。しばらくしてお暇をした。龍坪に行く前に一度警察署に行って報告して行くのが順序と思い、其の序に野田さんの家に寄った。此処でも和田さんの家で聞いた様な話が続いた。龍坪の話を聞いても詳しい事は知って居られなかった。しばらく話して警察署に行った。署内では、伊東部長と他に二・三人の警察官が居たが皆私服であった。一方司法室や二階の訓示室は朝鮮人保安隊が事務所にしていた。署長はと尋ねると官舎に居られると云う事であったので、直ぐ署長官舎に行った。丁度縁側に出て他の警察官等と話会って居られた。

「八月十九日召集解除になり只今歸って参りました」と報告したら、「御苦労でありました」と云われたきりしばらくはあとの言葉も出なかった。お互いにこんな哀れな事で再び逢おうとは想像もしていなかったのだ。署長の話で家族は無事で居ると云う事を聞いて一応安心した。お暇いとましようとしたら丁度夕食の仕度が出来た処だと云われ、無理に引き止められて此処で又夕食の御馳走になった。食事中各駐在所の話が出て、隣の警務主任の官舎に道面駐在所の藤川部長や新塘の畠中巡査等が来ているとの事であった。話を聞くと道面や新塘では相当の襲撃を受けたらしい。

今晩此処に泊まれと云われたが、私は龍坪に行く事にしてお暇した。署長官舎をでて序に隣の警務主任官舎に寄り私の最も親しい藤川部長に逢って見る事にした。警務主任は留守であったが藤川部長は何処か不安そうな、窶やつれた様な顔をして横になっていたが、私の顔を見ると懐かしそうににっこり笑って迎えて呉れた。此処で藤川部長の道面脱出の話を三十分位聞かねばならなかった。藤川部長の話す所に依ると道面では、終戦直後農民達が騒ぎ出し、先ず面事務所を襲撃して次に駐在所を取り巻き、盛んに石を投げつけたらしい。短気な藤川部長は拳銃を出して威嚇のつもりで発砲した相である。幸い弾丸は誰にも当たらなかった。然し発砲に依って一時は蜘蛛の子を散らす様に逃げた相であるが、一層農民を刺激し藤川部長を殺せと、わいわい騒ぎ出し収容のつかない状態になったらしい。それで親しい鮮人が密かに藤川部長を匿って、夜になるのを待って親子四人、夜の山道を新塘駐在所に向かって三里半の道を歩いた相である。新塘について見ると此処も道面と同じ様な騒ぎであったらしい。此処で畠中巡査や其の家族と一緒に親しい鮮人に頼んで牛車を一台雇って貰い、家族を牛車に乗せて新塘から新幕迄約九里の道を夜陰に乗じて命からがら逃れて来たと云う話であった。

何故警察官がそれ程迫害を受けねばならないのだろうか。私は藤川部長の話を聞き乍ら云い知れぬ憤を感じた。藤川部長の話を聞いて居る内にあたりはもう暗くなって来た。私は余り遅くなってはと思ってお暇した。警務主任の官舎を出てもう一度野田さんの家に寄る事にした。若し龍坪が危険な様であれば新幕に家族を連れて来なければならないから・・・・・・。他に家は無いので差当たり野田さんの家にでも置いて貰わねばならない。野田さん方に寄って其の話をすると、心良く引き受けられた。龍坪は鉄道沿線ではあっても新幕より日本人が少ない為、新幕に来ていた方が良いであろうと野田さんも云われた。もう大部夜は更けたらしいが、野田さんの家を出た。龍坪まで約一里半、鉄道線路を傳って行く事にした。今夜は新幕の町も田舎もとても静かであった。一人とぼとぼと線路を歩いて居ると何処にあんな騒ぎがあったのかと思われる位である。朝鮮人も終戦後二・三日は何の考えも無く一部の煽動者に操られ騒ぎはしたが、昨日当りから大部落ち着いて来たらしい。あと一時間位で懐かしい妻子に逢えると思うと自然足も速くなった。やがて瑞興驛の燈が見え出した。私は龍坪の様子が解らないので驛には寄らず真直ぐ駐在所に行く事にした。驛前の松木と云う日本人の運送店はもう戸を閉めていた。朝鮮人の家庭ももう殆ど寝ているのであろう。物音一つせずひっそりとしていた。間もなく見慣れた龍坪駐在所の前に来た。私は直ぐ駐在所の隣にある主席官舎の森部長の家に行こうかと思ったが、思い切って駐在所に入って見た。事務所の中には面書記をしている警防団員の牧山と云う鮮人や他に二・三人の者が居た。私の顔を見ると懐かしそうに「やあーお歸りなさい」と云って、とても機嫌よく迎えて呉れたので非常に嬉しかった。

彼等は今迄酒を呑んで居たのだろう。机の上にはコップが三つ四つ並べてあり顔を赤くしていた。此処も新幕の様に保安隊を組織し駐在所を事務所としていたのである。私は挨拶もそこそこに家族の安否を尋ねた。すると牧山君は「奥さんも子供さんも無事で居られます」と云い乍ら傍の一人に向かって「おい、奥さんに知らして来い」と云った。然し私は直ぐ行くから知らせなくても良いと云って駐在所を出た。すぐ隣が官舎の森部長の家である。私は家族が無事である事を聞いて全く安心した。それで先ず森部長に挨拶しようと思って戸を叩いた。此処ももう戸を閉めて寝て居られたのである。私が戸を叩き乍ら「森さん森さん」と呼ぶと初めの内は不安であったのであろう。返事もなかったが「松田ですが今歸って来ました。」と云ったら奥さんの聲で「まあ松田さんが歸られた」と云って主人を起こされた。漸く戸が開いて奥さんと森部長が出て来られた。私が挨拶していると隣の家から誰かが出て来る気配がした。近づいて来るのを見れば、それは懐かしい妻の顔であった。「今歸った・・・・・・。」「お歸りなさい・・・・・。」と云ったきり言葉も出なかった。あゝ無事であったか。其の瞬間の何とも云われぬ嬉しさ・・・・・・・。「玲子チャンは」と問えば「今寝ている」との事。もう大分夜も更けているらしいので又明日ゆっくり話す事にして我家に入った。

妻は家に入るなり、すやすや寝ているのも構わず玲子チャンを起こし「お父チャンが歸られたよ」と云い乍ら抱き起こした。眠いところを起こされた玲子は不機嫌相に目をこすっていたが、私の顔を見ると急ににっこりして「お父チャン」と云い乍ら私の方に寄って来た。私は玲子を抱き上げて「お父チャンは今歸ったよ、之からはもうどこにも行かず玲子チャンやお母チャンと一緒にいるからね。」と云ったらとても嬉しそうにして抱かれていた。間もなく隣の室から今村さんの奥さんが一人息子の良チャンと共に懐かしそうに入って来られて挨拶された。(主人の今村氏は出征中である。それで親しい同士の妻と今村氏の奥さんは同じ龍坪に居た訳である。終戦前迄は別々に家を持っていたのだが終戦后同じ家に住むようになった様である)それからしばらく妻や今村さんの奥さん達と終戦后の色々の話が続いた。此処も終戦直後の二日間位は田舎から農民達が出て来て相当騒いだらしいが、別に襲撃事件と云うような事はなかったらしい。もっとも此処から約半里離れた國民学校では日本人の校長が入営前の訓練をする特別練成所の生徒達から相当殴られたと云う事であった。一時間ばかり話されて今村さんの奥さんは余り遅いから失礼しますと云われて隣の室に引き取られた。玲子は私の腕に抱かれた儘安心した様な顔で無心に眠っている。妻と二人になってからもそれからそれへと話は絶えなかった。もう二時頃でもあろうか。いくら話しても際限がないので又明日の事にして寝る事にした。こうして私達は四ヶ月ぶりで再び平和な楽しい家庭生活に還ったのである。

翌くる日は午前中御世話になっていた主な日本人の家に挨拶に廻った。皆戦争に負ける等とは夢にも思って居なかったので、之から先はどうなるのでしょうと不安そうであった。米川と云う大地主の家に行ったら学校の林校長が家族と共に非難されて居られた。見れば校長の顔は赤黒く腫れていて特に目の線は青くなっていた。相当ひどくやられたらしい。此処で又襲撃事件のあらましを聞いた。然しもう我々日本人には事の是非を裁く権利も無ければ実力も無いのだ。「全く情けない事になりましたね」とお互いに云うより他に慰める言葉もなかった。米川氏の家を出て直ぐ近くの警防団長の金田氏の家と松原面長の家に序ついでに寄って見る事にした。二人とも半島人ではあるが、今迄の交際もあるし又此の二人に遭って見れば大体朝鮮人の我々に対する気持ちも解ると思ったので・・・・・。二人とも案外気持ちよくアッサリと迎えて呉れた。私は余り込み入った話はせず簡単な挨拶だけして歸った。私達の想像した程日本人に対して悪い感情を持っていない事が判った。警防団長は「田舎の農民達が何も解らない癖に騒ぐのに困ります」と云っていた。然し私達日本人と彼等朝鮮人とでは敗戦に対する気持ちが自ら異なっている事はどちらも遠慮勝ちに話す言葉の中にも判然と感じられた。私の家まで歸る途中にも「朝鮮獨立萬歳」とか「事大思想絶対排撃」等の貼紙があちこち目についた。

家に歸って妻や森さん達と新幕の方に行こうか此処に此の儘居るかについて相談した。すると森部長は案外呑気に此処に居てももう一つも心配はないからしばらくこちらに居たらと云われた。又今村さんも新幕に行くより此処に居りたいと云われるので私達も新幕に行く事は止めて此処に当分居る事にした。その日の夕刻であったか、驛前の松本さんから日本人の引揚げについて荷物は一人につき五十粁以内の約二個づつ、但し七個迄と連絡があった。それに依って翌日から私達は内地に持って歸れる様な大事な物の荷造り等を初めた。こうして三日間位は全く平穏に過ごす事が出来た。 
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ビデオはブログにUPするなら
デジカメのムービーがお勧めなんですよね。
長いと見るのもUPするのも大変なので(^^;

戦争体験記、これ本に出来ないかな~?
ブログの書籍化サービスとかあるでしょ。
そういうので1冊から本にして貰えるので。
残しておきたいですよね。
ROUGE | URL | 2014/08/09/Sat 09:12 [編集]
一気に読みました
おはようございます! Keikoさん

バラ鉢を屋内に取り込んでから朝食を済ませ
ブログを拝見しました。

昨日に続きお義父さんの手記読みました。
終戦日直後の様子がこと細かく書かれ読んでるうちに
山崎豊子さんの「大地の子」とダブってきました。
終戦日を境に日本人と朝鮮人の立場が逆転し
日本人への略奪・殺害・暴行などの
被害ばかり受けていると思っていました。
手記を読んで匿ったり、親切に応対された
多くの朝鮮の方々がいたことを知りました。
いつ、どこにでも善意ある人がいるんだなと感激しました。
花咲かじいさん | URL | 2014/08/09/Sat 11:22 [編集]
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