魅惑のローブ・ア・ラ・フランセーズ  義父の戦争体験記その1


週末は台風11号が日本列島に上陸しそうですね
 
前回の台風も、昨年までの台風の幾つかも
 
直撃する予報だったのに外れて…
 
ここに家を建てて、6年になるけど
 
まだ1度も大型台風の直撃はありません
 
それはそれで嬉しいのだけど、
 
ついつい、オオカミ少年みたいに慣れてしまって

今度の台風も逸れてくれるかなーって期待して、
 
台風対策をおろそかにしてしまうと、
 
そんな時に限って直撃なんて

ならないことを祈りたいですね。


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長雨でいつの間にか
 
伸びたシュートが倒れ掛かって
 
道路に伸びちゃってます



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苦情が出る前に誘引しました


今日咲いたバラ

なぜだか、今の時期に、お庭は一斉にバラが花開いて
 
数えてみたら、50種類くらいのバラが花を付けています

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花の一つ一つは小さくて、
 
春のような華やかさはないけれど、
 
それでも、ブログに載せきれないほどの花が咲いて

どれを選んであげようかって迷っちゃいます

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夢香 


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結愛

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ローブ・ア・ラ・フランセーズ

春よりも素敵な花が咲いたような気がします

嬉しくて、3枚アップしちゃいました

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ローブ・ア・ラ・フランセーズ

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ローブ・ア・ラ・フランセーズ

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モニークダーヴ

黒点病で、丸坊主になったのですが

復活しました

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ニューウエーブ

一株500円の大特価の苗だったのだけど

こんなに可愛い花が咲いて、嬉しいわ


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ディスタントドラムス

いつもながら、花弁のグラデーション

いつ見ても飽きません


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センチメンタル

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ギー・ザヴォア

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イングリッシュ・ヘリテージ

今日のニャンコ

ネコは1年に3日だけ暑いっていわれるけど

その3日が今の時期かしら

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もこちゃんも

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ルナちゃんも、じーっと横になって寝てばかり、
 
犬は、ハアハア口で息をして、体温調節してるみたいだけど

ネコは汗はかかないし、どうしてるのかしら

もともと御先祖は砂漠出身だから

きっと、強いのね

長くなりましたが、今日からすこしの間
続きがあります
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  8月は原爆投下や終戦記念日があって
戦争の悲しい体験を思い出させる時期ですね
横浜の中学生が、修学旅行でいった長崎の原爆記念館で
騒いで注意された腹いせに
被爆者の語り部に「死にぞこない」っていって嘲笑った
と聞いて、とても悲しくなりました
今の若い人たちにも悲惨な記憶を語りついで
戦争の過ちを2度と犯してはいけないことを考えるのは
とっても大切なことだと思います

私の義父も戦争体験記を残されています
義父は私が結婚するより前に亡くなられているので
写真でしか知らないのだけど、
残された体験記 「北鮮哀歌」を読むと
妻子と別れ別れになった悲惨な体験が伝わってきます
以前、主人がホームページに公開していたのですが
プロバイダーが変わって、リンクできなくなったので
何回かに分けて、ブログへアップします
よろしかったら読んでみてくださいね。


「北鮮哀歌」

第一章. 昭和二十年八月十五日

昭和二十年八月十五日、此の日は我々日本人にとって永久に忘れることの出来ない記念すべき日である。丁度、私は当時平壌の部隊に入隊中であった故、終戦の玉音は直接聞かなかった。

我々は、其の日も暗号手として練習に余念がなかった。もっとも其の一週間位前頃から、戦友達の話に依り廣島に原子爆弾が投下され、数十萬の人が死んだと云う話を聞き、之から先どんな事になるのであろうかと語り合っていた。それから間も無く、ソ連と満州北鮮の国境で交戦が初まったと云う話もあり、ここ一週間ばかり殆ど毎日の如く空襲警報があったりして、愈々(いよいよ)戦争が真近に迫った感がしていた。一億玉砕と云う事は単なる戦争激励の文句ではなく、現実に初まったのだと感じた。

之と前後して我々の部隊も愈々(いよいよ)野戦に出動すると云う話もあり、今日か明日かと出動命令を待っていたのである。

その日の午前十時頃であったか、突然非常呼集のラッパが鳴り、私たちは急いで暗号紙を取り片づけ、私の所属している編隊に駆けつけた。丁度玄関に入ろうとしている頃には、もう武装した戦友達が営庭に整列いていた。私は遅れまいとして、二階の一番奥の私の班に入る迄は全く夢中であった。急いで武装の仕度をするのだが、慌てているので思うようにならぬ。ようやく武装して出ようとすると、舍前にもまだ一人戦友が残っていて、一所懸命で武装をしている最中であった。

何の為の非常呼集であるか全く解らなかったが、何か重大な要件であると云う事は察せられた。週番下士官から怒鳴り飛ばされて営庭に出たら、もう盛んに番号をかけていた。夢中で列の中に入り、ようやくほっとした。私が列に加わってからも、あちらこちらから一人二人ずつ週番の大きな(こえ)を後にして、(ころが)る様に駈けて来る者も居た。

それからしばらくして、もう舎内には誰も居らず、営外に出ている者以外は全部集合したと、週番下士官から中隊長に報告があった。それでも隊長は一寸うなずいて見せた丈で、別に命令は下さなかった。その間我々は服装の点検をしたり、忘れ物は無かったかと各自が身の廻りを調べた。それが済むと、今度は何の為の非常呼集であろうかと、各自皆疑惑を抱いて居るらしかった。或る者はソ連との戦争が激しくなって、我々は直ぐ戦場に出動するのだと云う者もあり、大部分の者がそれを黙認しているらしかった。私も多分そうであろうと思った。既に覚悟は出来ていた。出征したからには何れ戦場に立たねばならぬ。愈々、私にも其の機会が到来したのだ。皆も私と同じ考えであろう、一種厳粛な空気が見られた。

かれこれ一時間余りも待ったであろうか、我々の中隊も改めて番号をかけ、中隊長の指揮に依って、部隊本部の前に整列した。此処でも三十分位も待ったであろうか、十二時過ぎになった頃、本部の玄関から部隊長初め四・五人の将校が出てきた。部隊長は、幾分元気が無いように下を向いた儘歩いて来られた。各中隊長指揮の元に敬礼を受けるや、部隊長は「只今から重大な報告をする。」と云われ、幾分(こえ)を高め、「只今天皇陛下の御命令で戦争中止と云う事になった・・・・・・。各自は(いたずら)に軽挙妄動する事無く、過激な言動を慎み、上官の命令に依って行動する様に・・・・・。それでは直に解散して、それぞれの隊に歸って命令あるまで待機せよ。」と云う意味の訓示があった。其の瞬間、一種云いようのない悲壮な空気が漂った。青天の霹靂とは、正に此のことであろうか、今の今迄戦場に行くのであろうと思っていたのが、何と戦争終了の命令を聞こうとは・・・・・。然し中止と云うのであるから、まさか負けたのではなく、条件付で講和を結んだのではないかとも考えられた。戦友たちの中には日本が負けたのだと云う者もあり、何とも云われぬ感情に支配され、中隊に歸った。解散になってからも、戦友達は云い合わした様に武装の儘、営内に入ろうとはせず営庭で思い思いの事をしゃべっていた。その内に、誰かが号外を持って来て、真実に日本が降伏したことを知り、一時は皆黙ってしまった。

あゝ、遂に日本が降伏。信じられない事であった。本土決戦一億玉砕はどうなったのであろうか、形勢不利なるは察していたものの、余りにも早すぎるではないか。或る者は、何故降伏したのであろうか、なぜ最后の一兵になる迄戦わないのであろうか、又或る者は原子爆弾でやられたのだ。いやソ連が攻撃して来て、勝つ見込みがないので降伏したのだろうと、各自思い思いの事を話し合った。

それからしばらくして、皆は思い出した様に舎内に歸り武装を解いた。班内でも日本降伏の事で、古兵は古兵、新兵は新兵同士で、がやがやと話し合った。もう軍隊の規律も、軍紀もなかった。今までのように張り切った元気は、何処にも見られなかった。

夕方になって、週番上等兵が飯上げに出るように班内を廻って歩いた。今迄であったら階段の処で、大声で「飯上げ!」と一言云えば、各班競争で飛んで行ったものだが、今日は各班共誰も行こうとする者はなかった。それでも、食う丈は食わねばならないので、食事当番がしぶしぶ食事を取りに行った。今迄に無い、味気ない食事を済ました。あとはもう寝台の上に横になる者、戦争終了の話、之から先はどうなるのであろうかと、食事当番以外は何もせず、いつ迄も語り合っていた。 それは、まるでどこかの工場の寄宿舎の生活を思わせるものがあった。九時の点呼が終わってからは幾分静かになった。皆もう話し疲れて、えいどうにでもなれと云った気分であった。

翌朝、点呼を済ませ、朝食後も別に命令も無く班内に止まって、前日の様な状態が続いた。どこから手に入れたか、誰かが新聞を持ってきたが、それを見ると皆は飛んで集まった。戦争終了の大詔が大きく出ていた。阿南陸相自刃の事や、其の日の大きな出来事が出ていた。私の注意を引いたのは「朝鮮獨立の準備進む」と云う活字であった。内容は良く記憶していないが、京城放送局から、昨夜安在鴻が朝鮮獨立の放送をしたと云う様な記事が書いてあった。こんな事が真実であろうか、之から先は容易ならぬ事態が起きるのではないかと云う予感がした。それに不審な事に、朝鮮総督の聲明はどこにも出ていなかった。総督は何をしているのであろうか、もう殺されたのではあるまいかとも考えられたが、深く考える事は止めよう。考えれば考えるほど不安になっていくばかりである。

こんな事を考えて来て、突然私は非常な不安が起こって来た。それは、新幕に居る家族の事である。新幕はどうであろうか、騒動が起きていなければ良いが、妻子が無事であれば良いがと本能的に頭に閃いた。そうなると、もう一刻も早く新幕に歸って見たい衝動にかられたが、我々は、まだ軍人である。これからどんな命令が下るか解らないと思うと、何だか胸迫る想いがした。

此の新聞を見てから、半島出身の兵隊の空気が変わって来た。営庭のあちらこちらで、半島出身の兵隊同士が、何か朝鮮語で話し合って居るのが見られた。彼等は日本の降伏を一つも哀しく思っていない様であった。否、寧ろ喜んでいる風にさえ見えた。私の班の、高野と云う半島出身兵も、今度歸ったら美味しい物をこしらえて、うんと食べてやろうかとか、朝鮮の軍隊に入ってやろうかとか、召集解除になる事が嬉しくてたまらないと云った口振りである。我々には、それを苦々しく聞き流す丈で誰も話し相手にならなかった。

民族の相違、之は時の偽政者が、どんな巧妙な政治をやっても、どんなに人道的な善政を施しても、どうしても一体にする事は出来ない事実であると云う事を、此の時はっきりと感得した。

午後になって、又突如非常呼集がかかった。皆は、事態が事態であるだけに、今度は又どんな事が起こったのであろうかと云う疑惑の許に、すこぶる緊張して営庭に整列した。今度は、昨日の様に待つ事も無く、前日と同じ隊形で本部の前に集合した。部隊長は、静かに「只今、平壌の西方より暴徒が来かかっている情況に依って、我が部隊は、之が鎮圧警備の任にあたる命令が出た。別命あるまで、営庭で待機して居れ・・・・・。」と云う命令を(つた)え、それから前日と同じ様に、戦争終了になっても軍籍にある以上はまだ立派な帝國軍人であるから、上官の命令を絶対信頼し、要らぬ心配をするなと云う意味の訓示を傳え、一段と聲を励まして、「半島出身の兵隊に告ぐ」と前置きして「今後、朝鮮は或いは獨立して日本と袂を分かつと云う様な事になるかも知れないが、例えそのような事になっても、今迄お互いに軍人として助け合って来た事を忘れず、いつまでも日本と朝鮮は、今までの様に仲良くして呉れる様に。」と云う意味の事を噛んで含める様に話された。それは(あたか)も親が子を訓すような、又頼むような何か悲しい雰囲気であった。それは朝鮮人の暴徒を朝鮮人の兵隊が鎮圧に出かけて、果たして効果があるかどうか、(むし)ろ兵隊たちが先頭に立って暴徒化するのではないかと心配する隊長の心の中が見えるようであった。然し幸いにして我々の部隊は待機しただけで出動せずに済んだ。それでも夕食は武装した儘営庭で済まし、暗くなってから舎内に引き上げた。いつでも出動出来る準備を整えて置く様にと云う小隊長の訓示の下に、班内に歸ってからも全く落ちつきがなかった。平壌の神社が焼かれたと云う話や、あちこちで朝鮮人が騒いでいると云う話を聞き、之から先どんな事になるのであろうかと云う話で、班内はいつまでもごった返した。我には又いつ出動するか解らないと云うので夜もろくろく寝つかれなかった。

翌朝点呼が済んでから、誰云うとなく半島出身者及び鮮内召集者は召集解除になるのだと云う話が傳わった。私が便所に行く為、洗面所の廊下を通っていると、半島出身者の柳原兵長が、私に「おい松田、お前達はいよいよ歸れるぞ」とさも嬉しそうに話しかけた。私は黙った儘返事をしなかった。戦争に負けて歸るのが、何が良いかと心の中でつぶやいた。

午前九時頃であったか「全員作業衣で舎前に整列」と週番が廻って歩いた。全員の整列が終わったら、週番士官が出て来て「今から大峰の作業場に行って防空壕の取り片づけをするから、病気や特別の任務のある者を除き直ちに出発するように」と傳えた。私はその前からマラリヤで苦しんで居たので、行くのは止めようかと思ったが、午前中位は差支えないであろうと思ったので行く事にした。

大峰の作業場は部隊から約半里西方にあった。思えばここ二・三ヶ月位と云うもの、我々の部隊は殆ど昼夜兼業で防空壕を掘ったものだ。それは各中隊競争で、我々は毎日の如く此の作業場で汗を流したものだ。もっとも私は暗号手として特業があったから、特業の無い者程行かなくて済んだが、それでも夜間に出かけたり、一週間に三度は全員作業の日があったりして、よく出かけたものである。灼熱焼くが如き日も大雨の日も一向お構いなしに、唯部隊の重要な作戦と云う名目の下に、一日も早く完成を急いだものだ。お蔭で、あと四・五日で完成と云う処迄になっていたのである。それも今は水の泡になって終わった。

見馴れた大峰の山々、其の麓を流れる大同江や完成間近の防空壕を眺めた時は感慨無量の思いがした。午前中防空壕の中の取り片づけをやり、燕尾や十字鍬や其の他の機具を整頓したりして一先ず隊に歸り、午後も引続いて取り片づけを続行する事になっていたが、私はどうも頭が重く気分が悪いので、班長に報告して午後は行かない事にした。

皆が午後の取り片づけに行ったあと、それでも班内に四・五名は残っていただろうか、週番の命令で、残留者で各自班内の掃除整頓をして居ると、残留者全員舎前に整列と云う命令が出た。集合して見ると皆で三十名位居た。其の内特に重病人を除き、之から岩町官舎の警戒に当たるから武装して直ちに集合せよとの命令である。急いで班内に歸り武装の後舎前に整列、中隊長の訓示を聞き、我々は部隊から東方約二粁の岩町官舎に到着した。

官舎の空き家に休憩所を設け、三十分毎に官舎を巡廻するのである。然しさすがに軍隊が警戒して居る故か夜になっても何事もなかった。時に遠方の鮮人部落の方で唄でも歌う様な聲や鐘や太鼓に合せて踊っている様な騒がしい音がして来る。彼等は何の為に騒いでいるのであろうか。 多分朝鮮の獨立を祝って喜びの酒盛りをしているのであろう。午後九時頃になっても夕食を持って来て呉れない。我々はどうしたのであろうかと色々話し合っていたが、班長は待ち切れなくなって部隊長の官舎に行って事情を話し、部隊に電話で連絡を取って来た。その(ついで)に部隊長の官舎から玉蜀を少し貰って来た。連絡を取ってからも、かれこれ一時間余りも待ったであろうか、いくら待っても食事を持ってきて呉れない。班長はカンカンに怒って班長自身、他の一名を連れて部隊迄食事を取りに歸る事にした。

それから二時間余りも待ったであろうか、十二時過ぎた頃、ようやく班長等が食事を持って歸って来た。班長の顔を見ると、もう腹が立って物も云いたくないと云った様子である。班長の話を聞けば、其の日の夕方五時頃、半島出身者を初め鮮内召集の者、内地からの召集兵達は全部招集解除になって皆歸っていて、残っている者は将校・下士官と幹部候補生、それに現役兵と特別の任務についている者だけだという事であった。それで食事を運搬する者が無かったと云うのである。我々は今日此処に警戒に来たばかりに、今日解除になる筈の処歸れないと云って、皆ぶつぶつ云いだした。それでも班長は責任があるので、明日の朝になったら他の隊から交代が来るからそれ迄頑張って呉れと皆に頼んだ。然し誰も返事をする者も無かったが、皆もうこうなった以上は仕方がないと諦めた。

翌朝になっても仲々交代は来なかった。幸い食事は班長が二食分以上持って来ていたので困ることは無かった。然し外の者が全部歸った事を知ってからは、気がいらいらしていた。私も早く新幕に歸りたい。妻や子供はどうしているのであろうか・・・・・・。色々と考えているともう警戒して居るのが馬鹿らしくなって来た。皆も同じ気持ちと見えて、真面目に警戒に廻る者はなかった。

時々官舎の下の道路を、半島人の兵隊達が毛布や食糧などを背中一杯に背負って通るのが見られた。彼等は多分四十四部隊か、或いは秋乙の部隊から除隊になって歸りつつあるのであろう。又官舎の右手には京義線の陸橋が直ぐ近くに見られたが、二時間置き位に兵隊や看護婦を満載した列車が南に通過した。列車の兵隊たちは、我々の姿を認めると、何か大きな聲で叫び乍ら腕を振った。中でも看護婦達は白いハンカチを出して、我々に対して一所懸命に振って通った姿が何か印象的であった。昼過ぎになっても交代は来なかった。一同の者はもう物も云いたくないと云った顔をしていた。班長は責任上歸る訳にもゆかず、朝になったら交代が来るからと云った手前、皆の物に対して何も云えなかった。何度も部隊長官舎に行って連絡するのだが、一向に交代は来なかった。夕方になってやっと食事と交代が来た。腹は空いていてもゆっくりと食事をする者もなく、急いで部隊に歸った。班長が週番に盛んに何か文句を云っていたが、そんな事を誰も聞こうとはしなかった。班内に歸って見ると、どこもガランとしていた。僅かに現役の古兵達が焼糞に酒を呑んでいた。私達が歸っても何も云わなかった。我々も又何も云わず歸り仕度を初めた。私の手箱の上の衣類は乱雑にひっくり返されていた。気をつけて見ると外套が無い。古兵達の話に依ると昨日の召集解除者が持って行ったようだ。私は何か浅間しい姿を見せつけられた感じがして情けなく思った。夕方遅く舎前に於いて正式に召集解除が通知された。もう暗くなっているので、序に一晩泊まって翌朝出発してはと中隊長が話されたので、皆もその通りにする事になった。その晩夕食後もぜんざい・菓子等の甘味品が配られた。その代わり我々は人員の少ない関係で、不寝番に立たねばならなかった。

最后の兵営生活、もう我々の生涯には永久に見られないであろう軍隊生活、思えば此の銃も今晩が最后で永久に持つ事は出来ないのだ。僅かに四ヶ月前銃后の輿望(よぼう)(にな)ってはりきった気持ちで入って来た此の兵舎、こんな惨めな思いで別れなければならないとは・・・・・・。不寝番を終えて床についても中々寝つかれなかった。

明ければ八月十九日午前八時頃営庭に整列。当直将校から別れの言葉を聞いて、我々は営門に向かった。見送る者見送られる者、皆何も云われぬ悲痛な顔をしていた「元気でやれよ」と云い交す聲もどこかしめっぽい感じがした。愈々営門を出る時はさすがに何とも云われぬ感情に支配され、思わず目頭が熱くなった。さらば四十八部隊よ、永久にさようなら心に叫びつつ。思えば終戦を境にして我々の身辺にも如何(いか)に急激な変化が起こった事か、あゝ昭和二十年八月十五日、此の日から我々の想像もつかぬ悲劇が展開されて行ったのである。

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麻呂です♪
暑いのに薔薇ちゃまがよく咲いてくれてますね♪
枝もよく茂って秋が楽しみですね。

猫ちゃん暑そうですね~!!
麻呂の知り合いにチャンピョン猫ちゃんを
育ててる方がいますが
エアコン付けて床暖付けてます。
なのでわんこより暑さに強いのかもですね。

戦争は嫌ですね。
亡き祖父も頭と拗ねに銃弾を受けて帰ってきたそうです。
maro | URL | 2014/08/08/Fri 09:45 [編集]
悲惨な戦争
おはようございます! keikoさん

お義父さんの「北鮮哀歌」読みました。
終戦日から数日間の緊迫した様子に息を飲みました。
再び起こしてはならないと痛感します。

台風11号の接近で先ほど激しい雨になりました。
バラ鉢を屋内に取り込まなくてはと、思っているんですが
腰がまだ痛いので躊躇しています。
お互いに被害が出ないよう願うばかりです。
花咲かじいさん | URL | 2014/08/08/Fri 11:00 [編集]
すごい!まるでバラ園みたいに咲いてますね~
しかも綺麗です(*^_^*)

台風、気になりますね。
でも私も大した対策は出来そうもないので
ベランダの高い位置に吊るしてるのを下ろす位かなぁ・・・
出来れば雨だけだといいのですが。
関東は日照り続きで少し位は雨が欲しいんです。

お義父さんの「北鮮哀歌」拝見しました。
こういうのは絶対残すべきだと思うので
keikoさんの所に転載されて良いと思います。

以前、自衛隊の資料室に行ったのですが
カミカゼ部隊の方々の遺書に泣きました。
ROUGE | URL | 2014/08/08/Fri 11:29 [編集]
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| | 2014/08/08/Fri 22:02 [編集]
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